紅茶
tea
Tea
紅茶
「午後の紅茶」に代表される紅茶は、コ―ヒーとは違い、優雅な貴族の飲み物のイメージが漂う。スリランカ紅茶は世界で有数の紅茶生産量を誇り、スリランカの重要な産業です。ここで働く人たちは、セイロンコーヒーがなくなり、その後にインドから強制的に紅茶の畑の栽培のために移住させられた人たちです。スリランカの民族はシンハラ人ですが、この紅茶農園で働く人たちは、タミル人です。
フェアトレードは、コーヒーについては昨今注目が集まってきているが、広大に存在する紅茶農園の労働者は、現在も昔ながらの低賃金と住まいの劣悪な環境です。コロナは集団感染が起きコロナ禍が長く続いています。
紅茶農園は、葉っぱを摘むので農薬と化学肥料が欠かせません。しかし、ウバ紅茶に有機無農薬紅茶やフェアトレードの紅茶園が存在しています。
フェアトレード手記
Fair trade
世界は21世紀に入り、世界的に反貧困の救済運動が盛り上がり、あわせてフェアトレード運動がイギリスやヨーロッパでより盛んになってきました。
ちょうどその時、私は有機無農薬ブラジルのコーヒーのイヴァン・フランコ・カイシェッタさんと、お会いしました。また、初めてスリランカに行き、スリランカの有機無農薬紅茶ニードウッド農園のデンジル・ソーサさんとお会いしたのも、その時でした。
この2人との出会いと、私のフェアトレード運動の始まりもそれからでした。
有機JAS認定制度も始まり、有機についての法律の施行、イヴァンさんが有機無農薬のコーヒーの認定、そして、スリランカの有機無農薬の紅茶訪問での、有機無農薬の貴重性を知りました。ブラジルのコーヒー農園訪問、スリランカ紅茶農園の訪問、しかもそれぞれ有機無農薬の農園でありました。ただ、スリランカの有機無農薬紅茶農園訪問は、事前にその農園を知っていたのでなく、偶然に有機農無農薬紅茶農園を探している時に、出合ったのです。
そして、ブラジルのイヴァンさんとスリランカのデンジルソーさんと共通していたのは、有機無農薬栽培にしたのは、農薬の土壌汚染や環境問題でした。紅茶葉っぱを摘むので、その炭素C補給について話されました。そして、デンジルソーサさんもキリスト教徒、高学歴のインテリでフェアトレードに関心を持たれ、労働者へのいたわりの心を持つ方でした。デンジルソーサさんは、スリランカで最も早く有機無農薬の紅茶を作った方で、イヴァンさんは、日本の有機JASをブラジルで一番最初に取得された方で、両者とも有機無農薬の実践者だったのです。
ブラジル、スリランカの生産者…そして日本の消費国は、私の中ではいっぺんにつながり、フェアトレードの言葉となっていたのです。
紅茶農園訪問は、私のフェアトレードの理想であり、単に現在の紅茶でなく、過去のセイロンコーヒーへの思いへの遭遇でした。今ではこの世から消えたセイロンコーヒーと、その時代をつなぎ合わせるセイロン紅茶は、私にとってスリランカコーヒーの歴史の紐解きが始まったのです。
セイロン紅茶の始まり
イギリスはオランダとコーヒー競争に敗北し、1730年頃からイギリスのお茶貿易は、中国茶であり、コーヒー貿易を抜いていました。さらに、1760年代、70年代とお茶輸入は増加しました。
中国茶は小規模農家の前近代的な生産効率の悪いものでした。それを変え効率的なプランテーションにし生産を増加させ、イギリスは貿易量を増やしていきました。
植民地で茶葉栽培をする。それがコストを下げることになり、貿易で有利となる。イギリスの茶貿易戦略のもとインドでの茶栽培を始めました。
中国との茶貿易より、コスト面の有利さと近代的栽培方法を導入したインドでの茶葉栽培を進めることに成功し、1860年までには、アッサム州からベンガル州のダージリン、セイロンに近い南インド、ニルギリへと茶園は広がりました。
Farm
セイロンコーヒーは紅茶に変わった
イギリスにとっては、インドとセイロンは、ほとんど一体のもので、1851年ジェムズテーラーというスコットランド人が、インドでは紅茶栽培に15年かけ、産業のないところで紅茶栽培を成功させましたが、その頃、セイロンコーヒーが貿易品として、コーヒー産業で繁栄していたので、簡単に紅茶に変えるというわけにはいきませんでした。
しかし、コーヒーにとっての最大の敵サビ病が発生した時は、インドでは、紅茶農園が広がり、茶園ブームが起きていました。
しかし、当時セイロンもコーヒー・ブームに沸いていたが、1868年コーヒーがさび病になったのです。セイロンにイギリスが紅茶に転換するきっかけとして、都合のよいことでした。それからセイロンは、10年間程度で紅茶農園に変わっていきました。そして、30年間にほとんどセイロンコーヒーはなくなり、現在のセイロン紅茶に変わってしまいました。
フェアトレード紅茶の現場
セイロン紅茶農園の労働は、インドの南から強制的に移住させられたタミル人が働いています。紅茶農園プランテーションの住まいは、植民地時代から長屋に狭い居住空間に5,6人が生活していて、農園に生まれ成長して15歳から働き始めます。閉鎖的な農園でここで、生涯くらしています。
2000年初期のスリランカ紅茶農園は、状況がかなり変わってきていて、現在の紅茶は、生産と輸出が減少して、国の外貨獲得に影響しています。
労働は低朝7時から夕方6時、賃金は低く、若い人が紅茶農園から離れて都会に出ていって全部茶の葉の手摘みの労働は、きつく労働者の高齢化が進んでいます。
紅茶農園は、あまりフェアトレードについて語られることがありません。なぜでしょうか。紅茶農園は植民地時代のままの農園の実態が見えにくく、閉鎖されているからなのです。ここにフェアトレードの視点を当てることが必要です。
また、スリランカのカカオについても、同様です。